幸福の欠片.9
SIDE:千歳千里  2008.由梨ゆかり








「……ない」

昨日。
屋上に上がって先生と会うまでは確かに握り締めていた入部届け。
だが今日学校に来て気付いてみれば、その姿はどこにも見当たらなかった。
記憶を辿って昨日の出来事を思い返してみると、昨日先生と会ってからその後。
家に帰る時には手にしていなかった様な気がする。
となると屋上で落としたのだろうか。

念のため屋上も確認しに覗いたが誰も居ないそこには何かが落ちている気配も無かった。
仮に屋上に忘れていたとしてももう風で夜のうちに飛ばされたと考えるべきだが。

ただの入部届けの用紙一枚。
そんなに大事な書類という訳でもないし、またもらいに行けば済む事だ。
それに。

「先生と会える…」

別に会おうと思えば教師と生徒の関係なのだから口実をつけなくてもいつでも校舎内で会えるのだが、いくら昨日もう避けないと約束してくれた所で用も無く会いに行けば別に相手が俺じゃなかったとしても良い顔はされないだろう。
というか用も無しに職員室に行く、というのもおかしな話だ。

俺は「無くしてしまった入部届けの用紙をもらう」という立派な用件を持って先生の居るであろう職員室へと足を運んだ。





「渡邊先生なら、コートにおるんとちゃうやろか?」

職員室には会いたかった先生の姿は見当たらず、入り口付近にいた中年の頭の薄くなった先生に尋ねるとそんな答えが返ってきた。

先生…渡邊っていうとね

初めて聞かされた苗字に、今更ながら本当に何も自分は先生の事を知らないのだと改めて気付かされる。
教えてくれた教師に頭を下げ職員室を後にし、先生の居ると言われたテニスコートに向かった。




今日から新入生対象に各部活動への勧誘が始まっていて、テニスコートにはテニス部の入部希望者と、テニスに興味があって見学に来ている1年生らしき学生の姿。
さすが関西きっての強豪テニス部だけあって入部希望者もかなりの数の様だ。
そんな1年生の中に混じって見えたのは会いたかった先生の姿。
入部希望者への対応が忙しい様で声をかけようかと思ったが、少しためらう。
しばらくその慌しそうな様子を見ていると先生がこっちに気付いた。

「千歳〜〜!何しとんのや!!はよ来んかい!!!」

まさかの怒鳴り声に慌てて駆け寄る。
あまりにも大きなその声につられて先生の周りにいた入部希望者と、2、3年生の部員達が全員こっち注目して気恥ずかしい。

「部活初日から遅刻か、ウチのテニス部もなめられたもんやな」
「は?」
「その腐りきった根性、先生が一から叩き直したるから覚悟しときぃや」

先生の言ってる意味が解らずキョトンとしていると、目の前に1枚の見慣れた…というか、今日俺が探していた紙きれが差し出された。

「先生…これ…」
「千歳千里…やな?昨日くしゃくしゃにして屋上に放り投げていっとったで?一応受けとっといたけど、入る気あるんか、無いんか?」
「………ある」
「ほな、さっさと手伝え」
「うん」

避けない、そう約束してくれた通り…それ以上に先生は自然に話しかけてくれて。
俺はそれが凄く嬉しかった。



慣れないなりにも白石や他の同級生に教えてもらいつつ新入生の入部手続きの手伝いをし、何とか部活初日を無事終えることが出来た。
簡単に後片付けを済ませて、帰り支度をしている内に辺りはもう薄暗くなっていて、お疲れ様、とそれぞれが帰路につく。
俺は何となく、部室にまだ残っている先生の事が気になって、でも残っていたら早く帰れと言われそうだったので部室から少し離れた所にある木にもたれ掛かって先生が部室から出てくるのを待った。






「オサムちゃん」

待つ事20分。
先生が部室から出てきたので、扉の鍵を閉めているその後姿に声をかけたらビクリ、と先生の肩がわずかながら揺れる。
おそるおそる振り返る先生の顔は少し強張っていて、俺は慌てて話しかけた。

「ごめん…脅かすつもりは無かったとね」
「なんや千歳か、お化けが出たんかと思たで、ホンマ心臓に悪いわ」

声をかけた相手が俺だと解ると先生は柔らかい、部活中の時と同じ笑顔に戻った。

お化けが出たかと思って驚いた。

そう先生は笑っていったが、何となくそうじゃない事は気付いていた。
また、あいつらが来たんじゃないかって。
そう思ったに違いない。
先生が隠そうとするものを、追求する気は無かったので俺も一緒に笑った。

「何しとんのや、はよ帰らな親御さんが心配するやろ」
「オサムちゃん待っとったん」
「はぁ?何でや…ちゅうか、お前、先生の事オサムちゃんって今…」
「うん、今日の部活でみんなそう呼んどったと」

ガックリと先生はうなだれる。
そんなに俺に名前で呼ばれるのが嫌だったのだろうか。
みんなは先生の事名前で呼んどるのに。
俺だけ…ダメなのだろうか。

「名前で呼んだらいかんとね?」
「や、別にええねんけど…」

はぁ、と先生はため息をつきながら言った。

「オサムちゃん、オサムちゃんって、俺、そんな先生らしく無いかなぁ…?」

教師でちゃん付けで呼ばれるんなんか、この学校で俺だけやで?
そう先生は苦笑いして言った。
そうじゃない。
その逆だ。
今日1日、部活中の様子を見て、先生はもの凄く生徒に好かれていると思った。
昨日あんなに愚痴を言っていた白石でさえ、本当は先生の事大好きで尊敬しているんだって事も。

「それだけ先生はみんなから愛されとるたい」

俺が笑ってそういうと、男に愛されてもちっとも嬉しくないわ、とブツブツ言う先生の顔は嬉しそうだった。

「あ…でも、オサムちゃん言われるのが嫌なんやったらちゃんと先生って呼ぶばい」
「子供が変な気ぃ使わんでええ、ええよ、オサムちゃんで…それに先生って言われんのも呼ばれ慣れてへんから正直コソバユイねん」
「先生なのに、先生言われるのが慣れてないん、なんだかおかしかね」
「せやな、俺もそう思うわ」

まぁ、たまにはそんな変な教師がおってもええやろ。
そう言ってオサムちゃんは笑った。
ああ、俺はこのオサムちゃんの笑顔が凄く好きだ。


「オサムちゃーん!」

俺がそう思った時に第三者の声。
ふりかえると三人の男子生徒。
ニヤニヤと、笑うその男達の風貌に俺は見覚えがあった。

「……オサムちゃんに何か用?」

そう、間違いない。
こいつらは一昨日、あの場に居合わせた……俺が好きだと思ったオサムちゃんの笑顔を奪ったヤツラ。
俺はオサムちゃんを庇うように一歩前に出て、相手を睨んだ。

「お前、この間のヤツやろ?脅かせやがって!先公や無かったんやな!」
「誰も自分が先生なんて言うとらんばい」
「まぁええやん、そいつはどうでも…せやからオサムちゃん、この間の分俺ら溜まってんやんか、相手してや」
「…………」

三人の中でリーダー格らしき男がさらりととんでもない台詞を言ってのける。
俺の頭の中ではあの時の光景が鮮明に蘇った。

「……またオサムちゃんを…傷つけるつもりなん…?」

許せなかった。
口に出したその言葉は怒りで自分でも解る位に震えていた。
無意識に握った拳も。

「傷つける?何言うとんねん!」
「せや、いくらヤったトコでオサムちゃんが傷つく訳無いやんか!なぁ〜オサムちゃん?」
「むしろ傷モノにされよんのはこっちの方やろ〜」
「そら言えとる〜!」

三人のあまりにも卑劣なその言葉の数々と腹立たしい笑い声に俺は握っていた拳を振り上げた。


「千歳!!やめぇ!!」

背後から叫ばれたオサムちゃんの悲痛な声。
掴まれた腕の方へ振り返るとそこには今にも泣き出しそうなオサムちゃんの顔。

「暴力はあかんやろ………もう遅いからはよ帰り」

今度は消えそうな声で。
だけどはっきりとオサムちゃんはそう言った。

「何で……?」

帰れ。
そう言ったのだ。

今ここで追い返すのは、俺じゃなくてあいつ等の方。
どう考えてもそうな筈なのに。

「オサムちゃんも俺らとヤりたいって〜」
「せや、王子様気取りのヤツははよ帰りぃや」
「ほなオサムちゃん行こや〜!」


「気ぃつけて帰りや…」

俺は振り上げていた手を力なく下ろすと、オサムちゃんはそれだけを言い俺の横をすり抜けて行った。
うつむいたオサムちゃんの顔はあの時と同じでもう俺には見えなかった。




「何でなん……オサムちゃん……」

一人その場に取り残された俺は、ただその場に立ち尽くす事しか出来なかった。


NEXT>>