幸福の欠片.13
SIDE:渡邊オサム  2008.由梨ゆかり








ガチャリ、と慣れ親しんだ自宅の玄関の鍵を開け「ただいま」と一言、誰が居るでもない部屋に向かって言う。
もちろん無人の部屋から俺の投げ掛けた言葉への返事は返ってくるはずもなく、俺は後ろ手にドアを閉めると靴を脱ぎ、帰り道に寄ったコンビニで買った今日の晩ご飯とビールの缶が入った袋を部屋に唯一ある小さなテーブルの上に置くと、ポケットから煙草を取り出しそれに火をつけて腰を下ろした。

テーブルの上には吸殻が山盛りになった灰皿と空になった惣菜のパックと割り箸、空き缶が昨日の夜食べて終わった時の状態のまま放置されていて、お世辞にも綺麗と言える部屋では無い。

「あ…今日ゴミの日やった…」

吸殻を捨てようとしたそのゴミ箱もいっぱいな事で今日がゴミの日だという事に今更気付く。
仕方なく先程買ってきたばかりのコンビニの袋から中身を取り出し、その空いた袋の中へ吸殻を捨て、袋の口をしっかりと結ぶ。
そして吸殻の無くなった灰皿へポトリと灰を落とした。

「あかんな…俺、しっかりせんと…」

紫煙を吐き出し一人呟く。

ほんの数ヶ月前まではこうではなかった。
この狭く暗い静かな部屋は、自分にとって暖かい何よりも大切な空間だった。









「ただいまぁー」

仕事ですっかり遅くなり、冬の空は既に真っ暗な闇。
ポツポツと街灯があるもののその光は頼りなく、通り慣れた道とはいえ辺りに人気の無い住宅街の路地を少々不気味に思いながら1人家へと急ぐ。
自宅のノブをひねり、玄関のドアを開けると内からは柔らかい光と温かい空気が溢れてきた。

「おう、お帰り、遅かったやんか」

笑顔で俺を迎え入れてくれる人物の名は康久。
俺より2つ年上で一緒に暮らし始めて1か月が経とうとしていた。

「部活のミーティングが長引いてしもてな…ごめ……んっ」

謝ろうとした俺の言葉は康久の唇に吸い込まれる。
温かい室内にいた康久の唇は外から帰ってきたばかりの俺のそれと違い、とても温かく心地よかった。

「オサムめっちゃ冷えとるやんか、はよこっち来て暖まりぃや」

言いながら両頬を康久の大きな手で擦られ、俺は促されるまま小型のファンヒーターの前へ座った。

「……何?なんかええ匂いがするんやけど」

いつもと違う部屋の香りを不思議に思い俺はファンヒーターの前で両手を擦り合わせながら訊ねる。

「解るか?俺のスペシャルカレー試作品第1号や、被験者はオサム、お前やで」

そういって康久はカレーを2皿、テーブルに並べた。

「何…お前、料理なんか出来たんか…?」

まさかの男の手料理のご披露に俺は思わず目が点になる。

「出来る訳ないやろ、今までした事ないし…せやからこれが試作品第1号や、味は保障せんで」
「何や、俺は毒見係か…」
「そういう事や、覚悟して食いや〜」

手渡されたスプーンを受け取り、俺は一口、その味の保障の無いというカレーを口に運んだ。

「……うまい」
「ホンマ?!」
「うん…めっちゃ美味いでコレ」

お世辞では無く本当に美味しかった。
小さい頃母親を亡くした俺を父親は男手1人で育ててくれた。
だが男親1人、息子1人の生活。
当然食べる物は全てスーパー等で買った出来合いの物ばかり。
俺は家庭の味、おふくろの味というものを全く知らずに育ったのだ。
当然カレーもインスタントしか食べた事はなく、こんなカレーを食べたのは生まれて初めてだった。

「作ってよかったわーオサム放っといたら偏食ばっかやろ?何か栄養のあるもん食わせてやりたかってん」
「康久…」
「おかわりいっぱいあるから食いや?」
「うん……あ。」

ごり。と歯では噛み砕く事の出来ない異物の感触。

「なんや?」
「…康久、このじゃがいも煮えてへんで…」
「………オサムの顎の力が弱いだけやろ、頑張って噛み砕け!」
「アホか!生のじゃがいもなんか食えるか!」



自分の帰りを待ってくれている人が居て。


自分の事を考えてくれて。


普段何でもない事がすごく楽しくて。


些細な事が嬉しくて。



………幸せだった。






「オサム…愛しとるで…」




アイシテル…



そう…言ったのに。



なのに……。






「男同士で…気持ち悪いやんか」









「………あかん!!!!!」

過去の記憶からはっと我に返り、引きずり出してしまった自分の過去の記憶を振り切る為、俺は首を左右に思いっきり振った。

もう忘れよう。
そう決めたんや。

だけど忘れようとしても嫌でもこの部屋には思い出が詰まっていた。

誰も居ない事はわかっているはずなのに習慣として身についてしまった無意識で言ってしまう帰ってきた時の「ただいま」という言葉も。

「っ………!」

あの優しい微笑みも。
差し出された温かい手も。
何もかも嘘だった。
今となってはあの幸せは幻影だったというのに。
どうして自分はあの誰よりも優しく、そして誰よりも残忍だった彼にいつまでも捕らわれているのだろう。

フィルターギリギリまで短くなってしまった煙草を灰皿に押し付け缶ビールのプルタブに手をかける。
怒りなのか悲しみなのか。
自分でもよくわからないこの感情にドクドクと、心臓が高鳴った。




「オサムちゃんのパソコンのアドレス教えて欲しいばい」


ふいにほんの数時間前、生徒が言った台詞が頭を過ぎる。
携帯のアドレスを聞かれる事は多々あるものの、パソコンのアドレスを教えて欲しいと言われたのは初めてで。
その言葉を不思議に思いつつ教えたものの、一体何を送ってくるというのだろうか。

気分転換にたまにはインターネットも悪くないかもしれない。
そう思い俺は部屋の隅に置かれたままずっと使う事のなかった、埃をほどよくかぶったノートパソコンを引っ張り出してきた。
久しぶりに触れるそのパソコンが果たして正常に起動するのかどうか、少し不安でもあったが起動ボタンを押すと、カタカタとパソコン内部から音がして、何の異常をみせることもなくすんなりとたちあがった。
メール受信の画面を開くと何件もの蓄積されたメール。
どれもこれもが広告や勧誘のランダムに送信されているであろうくだらないメールばかりだ。
今日教えた生徒からのメールと思えるものは届いて無かった。

「……何やっとんやろ…俺」

興味本位でアドレスを聞いてきた生徒がその日にメールを送ると決まった訳でもないのに。
些細な一言で振り回されている自分。
そんな自分がバカバカしく思えて、俺はそのまま電源を落とした。






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